建安の女流文学、蔡文姫

楽府

 楽府漢の武帝のときに始まり、音楽所の楽府(がくふ、官署の名前)で扱われた民謡のことであり、その歌謡は楽府と呼ばれるが、それが歌体の名前として広まるのは六朝の中ごろまで下がらなければいけない。
 前漢の上林楽府は、哀帝即位の建平元年(前6年)にひとたび閉鎖されたが、郊祭などの楽人は宮廷にあり。後漢の明帝 永平三年(60年)に太子楽府が興されると、また、黄門鼓吹がおかれるようになった。

 蔡琰の父である蔡邕は、六経文字を制定して熹平石経(熹平四年・175年)を立てた人でもあるが、音曲を愛して『琴繰』などの著作もあり。 「礼楽志」(後漢書「礼儀志」中、劉昭注に引く)に当時の楽制を詳しく伝えている。
 それによると、漢楽四品のうちに黄門鼓吹の楽があり、天子が群臣を燕飲するときに用いられるもので、「その短簫鐃歌は軍楽なり」とあり、軍楽が楽府の主流を占めていた事がわかる。
 鼓吹楽は始め外国使臣や王族将軍に下賜されたが、和帝の永元三年(91年)、功臣の耿秉の葬礼に下賜され、その後常例となって蔡邕が伝した「太尉楊賜碑」や「劉鎮南碑」など同様の例がある。
 後漢末には、これを軍陣に用いるものが多く、袁氏の鼓吹三万人は、のちの呉の孫策が攻めてこれを奪っている。曹操劉備もそれぞれに多くの鼓吹を擁し、その鼓吹曲を軍歌として用いた。

 楽府曲はここにいたり新たな場が与えられ、長編の作品が生まれる土壌となった。

 後述する蔡琰『悲憤詩』などは、まさにこのような背景から作られたものであろう。

 

 

蔡琰

蔡琰は字は昭姫または文姫とも 父の蔡邕の学才を承け、また音律に通じたといわれる。
 はじめは、河東郡山西省)の衛道玠に嫁すものの、まもなく夫を亡い子もいなかった為にひとたび実家に戻る。
 興平二年(195年)に董卓の残党による戦乱によって、南匈奴の捕らわれて連れさらわれ、胡地で左賢王・劉豹の妾となり、この地にとどまること十二年、曹操が宝玉などを贈って贖い、帰ってから曹操の命で屯田都尉の董祀に再嫁した。

 『悲憤詩』は、その数奇な流転の運命の生涯の自叙伝というべきものである。
後漢末に霊帝が崩ずると、宦官を討つために袁紹何進が招いた董卓の軍には異民族が多く、都はたちまちの内に大虐殺と略奪の巷となった。董卓献帝を擁して都に入り、また暴虐の限りを尽くす。蔡琰の父の蔡邕もこの乱によって没してしまう。